谷口 真由美 – 大阪国際大学准教授、全日本おばちゃん党代表代行

谷口 真由美
大阪国際大学准教授、全日本おばちゃん党代表代行、HRN会員

谷口真由美氏70年前、日本は連合国との戦争に敗けた。今年は「終戦から70年」と、マスコミの報道をはじめ、個人のSNSでもたくさん書かれていた。正しくは「敗戦から70年」なのでは?と引っかかる。日本語の良いところでもあり、悪いところだ。

敗戦後、大変な産みの苦しみを経験してできあがった日本国憲法。私の母方の祖父母は尋常小学校しか出てなかったが、憲法を読んで涙したと言っていた。もう戦争はしないのだと。もう、懲り懲りだと。

母方の祖父母は、戦争体験を比較的あけすけに語る人たちだった。祖父は関東軍として満州へ行っていたが、その時の話を、私たち兄妹を寝かしつけるときによくしてくれた。寝かしつけるときにする話なので、悲惨な話ではない。仲間とともに過ごした、少しの楽しかった話を膨らませて語ってくれていた。元々の性格もあるのだろうが、祖父は悲惨な話でも最後には笑いでおさめていた。

だからといってそれは決して、戦争を美化するものではなく、野営地で遭遇するオオカミとのハプニングなどであったのだが。また、祖父の兄弟である大伯父たちからも、ラバウルでの話や船が遭難して引き揚げが数年遅れた話などもよくきいた。兄弟が集まると、戦争の話をよくしていた。

私が通っていた小学校では毎年、夏休みの登校日が、8月6日、9日、15日に設定されていた。黙祷を捧げ、「はだしのゲン」を鑑賞し、戦争体験者の方の話を伺い、「平和」についての作文を書くというものだ。目と耳を覆いたくなる映像と話に、祖父から聞くような話はなかった。

そんな祖父母に、私が高校生の時にテレビでやっていた「終戦から55年」特集を観ながら、責めるようにきいたことがある。「何でもう懲り懲りやと思う戦争を、始める前に止められへんかったん?敗けるのわかってて何でやったん?何で日本は満州とかラバウルまで行く必要があったん?現地でやったん略奪と殺戮やん。あの時の日本の大人ってみんなアホやったん?」と。

そのときばかりは、祖父母は口を噤んだ。重い空気が流れた後に聞いたことは、「わからんかったんや」と。「国の偉い人らにはわかってたんかもしれんけど、わからんかったんや。ワシらも辛かったけど、(戦争にこちらが行った先の)向こうの人らも、そらかわいそうやったな。」と。その日はその後も「アホちゃうか目線」で祖父母を責めた覚えがある。

翻って、敗戦から70年。私もすっかり大人になった。祖父母は亡くなり、戦争体験のある方たちも減ってきた。

日本国民が主語で、憲法で強固に誓ったはずの「戦争は棄てましてん」を、「戦争を棄てさせられましてん」に読み替える人たちがいる。70年前の当時の人々が、この憲法をどのように迎え、あの戦争が庶民にとってどういうものだったのか、それによってどれだけの犠牲が日本の内外であったのか、想いを馳せられているのだろうか?

歴史を見てもわかるように、近隣諸国とは仲が悪いものだ。生活の場でも、近隣住民とはゴミの出し方などでも小さな衝突が絶えないものではないのか?それでもそれなりに知恵を出し合い、衝突を避け、何とか乗り越えてきた面もあるのではないのか?

日本はいま、どこかから攻められてるのだろうか?もしくは攻められる蓋然性が高いのだろうか?世界の動きは、アメリカの動きだけではないし、中国や北朝鮮との関係性だけではない。

世界地図を日本中心のものだけ眺めていてもわからないことがある。外国の情報がアメリカ中心のものであってもわからないことがある。小さな島国が、国際社会とどのように付き合うのが懸命なのか、次の世代に「日本の大人アホやったん?」といわせないために、大人は誰かに答えを求めることばかりせず、誰かに代弁してもらうことばかりを期待してはならない。争いは、何のために行われ、誰の名誉のためで、誰が得をし、儲けるのか?誰が傷つき、誰が悲惨な想いをするのか?

いま日本で起こっていることの責任は、私にもあなたにもあるのだから。だからこそ、私自身が、そしてあなた自身が学ぶこと、知ること、考えること、対話すること、言葉をごまかさずに伝えることを怠ってはならない。

谷口 真由美 (大阪国際大学准教授、全日本おばちゃん党代表代行、ヒューマンライツ・ナウ会員)